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去る2015年3月3日、フィリピンのシブヤン海、水深1000メートル地点で、戦艦武蔵と思われる廃船が発見されました。


その引き揚げを巡り、色々と意見も分かれています。

「そのまま、そっと眠らせてあげたい」または「引き揚げて、ちゃんと供養をしたい」。


70年以上たった今、それでも人々に様々な思いを抱かせる戦艦武蔵。

そして武蔵の同形艦で、一番艦でもある『大和』。


未だ魅了される人の多くいる『大和』と『武蔵』とは一体どんな戦艦だったのか。
似ているようで、しっかりとそれぞれの個性を持った二隻の違いや見分け方をまとめさせていただきました。


思い出に手を合わせる時や、活躍を思う時、さらに近く感じるためのお手伝いができたら、と思っております!


戦艦大和と武蔵の違いを超簡単に説明

1938年1月15日、日本は軍縮条約の延長に応じず、脱退。その後初めて造られた戦艦としても有名である『大和』に対して、『武蔵』は大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦、となります。

同じ大和型と呼ばれる同形艦の一番艦と二番艦です。


完成直後は同じ造りの二隻でしたが、改装を重ね、見た目の相違もいくつか出てきます。

けれど一番の違いは、二隻が辿ったそれぞれの運命、と言えるかもしれません。


戦艦大和とは?

全長263メートル、基準排水量6万5千トン、(当時)世界最大の戦艦です。

さらにこちらも世界最大となる46センチの主砲を持ち、この規模の戦艦では考えられないほどの速さ、27ノットを誇っていました。


このような性能や大きさ、搭載している火器多さの割には、非常にコンパクトなつくりの船体も特徴の一つとして挙げられます。

最強、と謳われた大和ですが、海戦は徐々に戦艦の時代から航空機へと主役を移します。

艦隊決戦を目的に作られた大和でしたが、その機会はなかなか巡ってはきませんでした。


そして運命の1945年4月7日、海上特攻命令を受け出撃した大和は、九州坊ノ岬沖でアメリカの空襲により撃沈されます。
共に沈んだ命は2740名。その壮絶な最期は、映画になるなど、今でも鮮明に語り継がれています。

戦艦武蔵とは?

◆動画『海底の戦艦「武蔵」の新映像、ネットで生中継』
戦艦大和(正式には軍艦大和)を一番艦とする同形艦の二番艦である武蔵には、実は妹分に当たる『信濃』という三番艦ができるはずでした。

大和が造られた時からそうであったように、日米の戦いの主役は完全に航空機へと移っていき、『信濃』は製造途中で空母へと設計の変更を余儀なくされます。


そんな中1942年8月に竣工された武蔵は、二年後の1944年10月24日、レイテ沖海戦で米軍艦上機の航空攻撃を受け撃沈されます。

魚雷25本、爆弾44発、ロケット弾9発(米側発表)を被弾しながら、5時間余りも沈まず持ちこたえたといいます。

世界一被弾した軍艦と言われる所以です。


また、2015年の発見まで見つかることのなかったため、「『不沈艦』武蔵は今も沈み切らず、海中を漂い続けている」という伝説まであったほどです。



戦艦大和と武蔵の違いをじっくりと!

猛攻撃の末、沈んだ両艦。けれど内側に置かれた機関室等は、爆弾にも耐えたといいます。

そんな二隻、詳しい違いを見ていきましょう。


製造された場所

  • 大和:広島県呉「呉海軍工廠」→国が自ら製造
  • 武蔵:「三菱重工長崎造船所」→民間
武蔵を製造した三菱重工ですが、多くの軍艦、さらに日本、欧米間の客船も造っていたため、艦内内装の設計に定評がありました。

大和を造った「呉海軍工廠」も、司令官が使う施設の調度品は長崎造船所へ依頼していた、と言われています。

内装に関しては、武蔵の方が質が良かったようです 。


外観

軍艦の艦橋部分には『ラッタル』と呼ばれる、甲板と結ぶための梯子が備え付けられています。

艦長は、艦橋から指揮を執り、各部署へ伝えていくわけですが『ラッタル』とはその連絡に重要な役割を果たしています。


その梯子(ラッタル)の踊り場数が、武蔵より大和の方が多かった、もしくは大和にのみあった、とされています。

さらに大和に至っては、その梯子が艦橋最上部の防空指揮所までも続いていた、といわれます。


大和より後に造られた武蔵に備えられなかった理由は単に費用や時間の問題だったのか、それとも作戦上のものだったのか、なんだか気になってしまいました……





最終改装後の装備の違い

副砲(15.5センチ砲)

  • 大和:6門(1門=主砲では100発 / 副砲 150 / 高角砲弾 300)
  • 武蔵:12門

高角砲(12.7センチ砲)

  • 大和:24門
  • 武蔵:12門

大和には敵機の攻撃を防ぐため連続高角砲が増設されましたが武蔵には間に合わず、代わりに機銃を設置したともいわれます。

そのため機銃数では武蔵は大和を凌ぎます。


もともと同形艦の二隻、改装後の装備等相違点はあるものの、なかなか見た目で見分けるのは難しそうですね。


任期

任期、と言うのか分かりませんが、旗艦を務めた期間です。

  • 大和:1942年2月から約1年間
  • 武蔵:後を引き継ぎ1944年5月までの約1年2か月ほど
理由は司令官施設の設備が武蔵の方がよくできていたため。さすが定評のある三菱重工・作です。武蔵が太平洋戦争中、連合艦隊で最も長く旗艦を務めた戦艦となります。


最期

共に撃沈により運命を終えた二隻ですが、その違いには大きな差がありました。

大和

護衛に恵まれなかった大和は、目的地(沖縄)到達前にアメリカ軍に捕捉され、そこからの密集攻撃にさらされます。

対する空からの敵機に、必死に応戦するも、真上への攻撃には功を奏せず、雲の多い曇天だったことも手伝い、この時大和が撃墜できた敵機はわずか3機、撃破20機、とされています。


1945年4月7日。午後0時34分から始まった攻防戦の末、約2時間後、大和はその生涯を閉じます。

360機による魚雷10本、爆弾7発、また、至近弾による無数の攻撃を受け、火薬庫に引火、横転、大爆発を引き起こし、3000人近くの犠牲者とともに沈みました。


意図的に左舷のみを攻撃されたといいます。

先の武蔵との対戦で対抗策を講じていたアメリカ軍の圧倒的勝利でした。


武蔵

輪形陣を組んだ艦隊行動中だった武蔵は、大和と違い、攻撃対象が他にもあったため、密集攻撃となることはありませんでした。

いわゆる波状攻撃となった武蔵には、修復を施す時間もある程度はありました。


また、魚雷での攻撃を左舷右舷、バランスよく受け、さらにその深度が低かったということも有利に働きます。

けれどやはりそれも焼け石に水。

むしろそれが被弾し続ける要因となり、最期は静かに沈んでいったと言われています。


終わりに…

それまでの『大型巨砲主義』から『航空機』での戦闘に変わりつつあった時代に『大和』と『武蔵』は生まれ、撃沈されました。

あたかも、『戦艦時代』の終焉をも告げるかのような最期ですね。


未だ人気の絶えない二隻ですが、称えるべきはその性能や当時の技術力であり、決してその『造られた目的』ではありません。

残念なことに海底に沈んでいる戦艦ですが、その雄姿、美しさは6000人余りもの犠牲者と共にあります。


大和、武蔵をはじめ過去の戦艦たちが、見る目を楽しませてくれる存在であり続けられるよう、犠牲者へのご冥福と同時に祈りたい気分になります。



さて、まったくの蛇足ですが、かの『宇宙戦艦ヤマト』、海外でも大人気ですが、肝心の艦名ヤマトは The Argoに。

内容もところどころ、まったく変わっていたりが当たり前のようになっていて、一見『宇宙戦艦ヤマト』が見当たらない……のですが、一応おおもとは日本のヤマトです!


いろんな意味で面白いかもしれません!


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